【僕の自己開示】自分を信じ、自分が信じた仲間を信じる
Seven Rich Group HR Account Executive代表の角田光史です。3期目を目の前にしているので、自己開示をしようと思います。特に軸となった4つについて。
No.1を目指せ
No.1を目指せということは、祖父に言われていた記憶があり、父にも言われ続けたことです。ちなみに 'No.1以外価値がない' くらいのテンションでした。祖父は起業家で、父は祖父が創った会社を継いでいます。母は専業主婦で僕たち3兄弟を育ててくれました。
僕は小さい頃から、かけっこでも野球でも1番を目指せと言われ続けてきました。当時はNo.1を目指しましたが、No.1にはなれず、No.2かNo.3止まり。たまにNo.1取れるくらいでした。当時は両親の期待に応えられないことが苦しくて、でもそれ以上の努力をすることはせず、言い訳して自分を慰めていました。自分で決めたことではなかったので、あまり納得感がなかったんだと思います。どこかで別にNo.1じゃなくてもよくね?のテンションでした。
ただ、高校では一変。紆余曲折色々あり、全国優勝を目指すことを決めました。初めて自分でNo.1になると決めました。
そんな背景から、No.1を目指す気持ちを強く持つようになりました。
No.1になりたいという表現が正しいかわかりませんが、本気で向き合い、コミットしたい。絶対に結果を出したいと思う底力的なものに近いです。そのくらいの気持ちでいないと、中途半端になり、誰も幸せにできないと思います。
人は、いつ死ぬかわからない
死生感を持つようになった理由はいくつかあります。
突然人生の幕を下ろされる経験から、いつ自分の人生に終止符をうたれるかわからない感覚を持つようになりました。だから生き急いでいると言われることも多いです。
本当に死とは隣り合わせの感覚です。
だから1日1日後悔せず、納得感を大事にしています。
みんなにも、“昨日より今日、今日を生きて、今日という1日に納得しよう” と口酸っぱく言い続けているのはそういうことです。
表現
高校時代の経験が1番心に残っています。
僕が進学したクラスでは硬式野球部への入部ができませんでした。
そのために軟式野球部が用意されていると、軟式野球部を推薦されました。
甲子園を目指してほしいという父と母の期待を一瞬で裏切る形になってしまい、絶望したのを覚えています。
入学してすぐ、編入することも考えました。
しかし、その選択をとることはありませんでした。
中学校の選抜で一緒にプレーしていた仲間からは、軟式野球部は“お遊び”と言われ続けました。
高校でも硬式野球部の連中が格上みたいな風潮があり、死ぬほどうざいと思っていました。
両親も一つ年下の弟の応援(高校野球)にいくことが多く、何か寂しい感覚を持ち続けていました。
絶対に全校生徒注目させてやる。両親や祖父を振り向かせてやる。ひっくり返してやる。それが高校時代の僕のミッションでした。当時はそれだけが原動力で全国優勝だけを目指し高校生活を過ごしました。
そして、この後にお話ししますが最終的に春の大会で関東3位という成績を残し、明らかに校内での見られ方や存在感が変わったことを実感しました。
注目されている感覚はたまらなかったし、何より生きている心地がしました。当時の僕にとっては最高の自己表現でした。
そして、最後の夏は絶対全国で優勝しようと誓います。
自分を信じる
僕は高校2年の春から軟式野球部の主将を務めました。
それまでは先輩達もいましたがレギュラーで出場し、圧倒的に結果を出していたのでやりたい放題でした。
しかし、自分自身が主将になりたくさんのことに気づき始めます。そして自分自身の変革、チームの変革にチャレンジし始めます。他人の目線を気にせず好き勝手やっていたクソガキが、意志を持ち始めました。
ちなみに軟式野球部は監督がいなかったので僕が監督兼主将兼プレーヤーを務めました。僕次第で、みんなの高校生活が最高になるか、最低になるか。責任感のあるポジションでした。
そう理解してから、自分の行動を変えることは難しくありませんでした。自分の高校生活を軟式野球に捧げようと決断してからは利己的思考から生まれていたくそみたいな甘えを全て封印し、全国で優勝するため、行動を絞りました。
ただ、そこからは色々ありました。
急激な自分の変化と、急激にチームの方向性を変えたこと、ビジョン(全国優勝)は共通言語になっていましたが、みんなの魂がついてきませんでした。
次第にみんなと僕の距離は遠くなり、気づけば自分の周りに仲間はいませんでした。そんなもんか。どうせみんな口だけだ。そんなやつら置いていこう。そう思っていました。
しかし、そのとき支えてくれたのは野球ど素人の顧問の先生でした。間違っていないから突き進めと言い続けてくれたおかげで、諦めず突き進むことができたと思います。
それからは孤独を感じながら、心はボロボロでしたが気にせず突き進みました。そうしているうちに、みんなも徐々に想いを受け取り、応えてくれ始めました。
春大会、関東大会で3位になり、全国優勝も狙えるチームに成長しました。チームの士気は高まり、夏大に乗り込んでやろうという活気がありました。この時あたりから、本当の意味でメンバーからの信頼を獲得でき、1つのチームになれた感覚がありました。最高のチームでした。
しかし、最終的に僕は左手首の粉砕骨折でグランドに立つことはできなくなりました。諦めたわけではないですが、左腕の感覚が一切なかったので終わりだと察しました。
保健室で涙が止まらなかったのを覚えています。
悔しくて悔しくて、どうしようもない怒りで押しつぶされそうになりました。
そんな時に授業が終わって噂を聞きつけたメンバーが駆けつけてくれたことを鮮明に覚えています。
みんなは僕の戻ってこれる場所を作ると言ってくれました。
僕なしで全国大会を勝ち抜き、僕にステージを用意してくれると言ってくれました。
この時、主将をやってきてよかったと、本気で思えました。
僕は自分を信じて突っ走ってきた結果、最高の体験を手に入れました。仲間をみつけることができました。だから今でも自分を信じたら突き進むと決めているし、決断したらやり切る覚悟を持っています。
今の事業部を立ち上げて約2年、苦しいこともたくさんありましたがなんとか乗り越えてきました。今後も同様に苦しいことがたくさんあると思いますが、今一緒に働くメンバーは、信頼できるメンバーだと確信しています。頼りになります。
だからこそ、このチームで掲げた2022年のBig Pictureを、描き切る覚悟です。覚悟を決めた時の僕は強いです。
僕が決めていることは1つだけ。
だれよりも汗をかき、だれよりも泥水を啜り、だれよりも傷を負う。
それだけは決め、結果を出すためなら何でもします。
僕は、みんなを信じています。
以上、僕の自己開示でした。